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美しく、しなやかに、力強く。 バレエダンサー 中村祥子さんの 「自分を導く力」
2024.08.23


PEOPLE WITH ESSENCE OF ELEGANCE PEOPLE WITH ESSENCE OF ELEGANCE
美しく、しなやかに、
力強く。

バレエダンサー
中村祥子さんの
「自分を導く力」

ANAYI 2024秋冬コレクションのテーマは「sense of ballet」。
その世界観を、磨き抜かれた表現力とスタイル、
凛とした美しさで着こなしてくれたのは
日本が世界に誇るバレエダンサー、中村祥子さん。


ANAYIが描く女性像を「どう演じるか」
今日が楽しみでした



今回の撮影の予習と、わざわざ事前に
ANAYIのショップに足を運んでくださったという中村さん。

「普段はなかなかショッピングを楽しむ時間がとれず、久々に心躍りました。
華やかなカラーが並ぶ、ファッションの喜びを詰め込んだような空間。
お洋服を手に取ってみると、むずかしくないシンプルなデザインをベースに、
ウエストラインの絶妙なシェイプや、動きに合わせて印象的にひらめくスカートのシルエットなど、
纏う人を美しく見せてくれるようなアイデアが随所に感じられて。
いろんな角度から追求されたエレガントな女性像を、どう表現するか……。
撮影への期待が高まりました」
ANAYI 2024秋冬コレクションのテーマは
「sense of ballet」。
その世界観を、
磨き抜かれた表現力とスタイル、
凛とした美しさで着こなしてくれたのは
日本が世界に誇るバレエダンサー、
中村祥子さん。


ANAYIが描く女性像を
「どう演じるか」
今日が楽しみでした



今回の撮影の予習と、
わざわざ事前にANAYIのショップに
足を運んでくださったという中村さん。

「普段はなかなかショッピングを楽しむ
時間がとれず、久々に心躍りました。
華やかなカラーが並ぶ、
ファッションの喜びを詰め込んだような空間。
お洋服を手に取ってみると、
むずかしくないシンプルな
デザインをベースに、
ウエストラインの絶妙なシェイプや、
動きに合わせて印象的にひらめく
スカートのシルエットなど、
纏う人を美しく見せてくれるような
アイデアが随所に感じられて。
いろんな角度から追求された
エレガントな女性像を、どう表現するか……。
撮影への期待が高まりました」

自分にも魅せる
個性がある。
衣装が「教えてくれたこと」

バレエ衣装を連想させるチュールスカート、鮮やかなドットのドレス、
クラシカルとモダンが共存するベアトップのセットアップ……。
それぞれの服の個性に合わせた表情や所作に見出す、中村さんの着こなし力。
衣装は“素敵な自分に変身するスイッチ”と語ります。

「6歳から始めたバレエ。
鏡を見ながらレッスンするなかで、
自分の容姿にコンプレックスを持つようになっていました。
そんななか、小学校5年生のときに初めてバレエのコンクールに出演。
真っ赤な衣装を着た自分を鏡で見たとき“キレイ”と素直に感動したんです。
自分にも魅せる個性がある……。
衣装は素敵な自分になるためのスイッチと思うように。
無意識にオンとオフのメリハリをつけているのか、
プライベートのワードローブはブラックが中心。
ちょっと自信のある日はホワイトを選びます」

バレエ衣装を連想させるチュールスカート、
鮮やかなドットのドレス、
クラシカルとモダンが共存する
ベアトップのセットアップ……。
それぞれの服の個性に合わせた
表情や所作に見出す、中村さんの着こなし力。
衣装は“素敵な自分に変身するスイッチ”
と語ります。

「6歳から始めたバレエ。
鏡を見ながらレッスンするなかで、
自分の容姿にコンプレックスを
持つようになっていました。
そんななか、小学校5年生のときに
初めてバレエのコンクールに出演。
真っ赤な衣装を着た自分を鏡で見たとき
“キレイ”と素直に感動したんです。
自分にも魅せる個性がある……。
衣装は素敵な自分になるための
スイッチと思うように。
無意識にオンとオフの
メリハリをつけているのか、
プライベートのワードローブは
ブラックが中心。
ちょっと自信のある日はホワイトを選びます」


「こんな繊細な白鳥は
はじめて」
日本人ダンサー
として歩む
覚悟をくれた一言

中村さんの衣装にまつわる印象的なエピソードが、もうひとつ。
2003年、ウィーン国立歌劇場バレエ団でプロとして
初めての舞台であり、初の主役を務めたヌレエフ版『白鳥の湖』でのこと。

「当時はまだプリンシパルではなく、ソリストとして臨んだ大役。
白鳥の湖はバレエ団によって振り付けや衣装が異なります。
ヌレエフ氏が考案した衣装は、装飾が本物の白鳥の羽のみ。
実際の白鳥の姿に近いその衣装はとても重いうえに、動くと羽が刺さるんです。
それにキラキラとした飾りがない分、
自分自身の表現で輝きや華やかさを演出しないといけない。
全幕を踊り切ることへの不安を覚えました。
不安が不安を呼び、気になってしまったのは海外のダンサーの顔の小ささ。
比較してはいけないと承知のはずなのに、
白鳥のポーズをとったときに自分の顔と比べてしまい、げんなりしてしまって。
私が主役でいいのかと、1回目の公演は
白鳥になりきることができないまま、
なんとか全幕を踊り切りました」

ところが、舞台を終えた中村さんを意外な出来事が待っていました。
中村さんの衣装にまつわる
印象的なエピソードが、もうひとつ。
2003年、ウィーン国立歌劇場バレエ団で
プロとして初めての舞台であり、
初の主役を務めた
ヌレエフ版『白鳥の湖』でのこと。

「当時はまだプリンシパルではなく、
ソリストとして臨んだ大役。
白鳥の湖はバレエ団によって
振り付けや衣装が異なります。
ヌレエフ氏が考案した衣装は、
装飾が本物の白鳥の羽のみ。
実際の白鳥の姿に近いその衣装は
とても重いうえに、動くと羽が刺さるんです。
それにキラキラとした飾りがない分、
自分自身の表現で
輝きや華やかさを演出しないといけない。
全幕を踊り切ることへの不安を覚えました。
不安が不安を呼び、気になってしまったのは
海外のダンサーの顔の小ささ。
比較してはいけないと承知のはずなのに、
白鳥のポーズをとったときに
自分の顔と比べてしまい、
げんなりしてしまって。
私が主役でいいのかと、
1回目の公演は
白鳥になりきることができないまま、
なんとか全幕を踊り切りました」

ところが、舞台を終えた中村さんを
意外な出来事が待っていました。

「楽屋口で待っていたひとりのお客様が
“こんな繊細な白鳥を見たのははじめて。その表現は日本ならではなのか”と、
私の演技をとても褒めてくださったんです。
自然と身についていた日本人としての所作や感性が、
海外の舞台では“表現の個性”として映っていたとはじめて気付かされました。
ついさっきまで否定していたものが、自分の強みに変化。
このままでいいんだ!と、ダンサーとしての在り方を確認できたことで、
2回目の公演からは“私という白鳥”を演じられるように。
努力の過程ではときに人と比較してしまうこともあって、
だからこそ高みを目指せたりもする。
でも、なかなか越えられない壁を乗り越える
最後の一押しとなるのは“自分が好き”という前向きなエネルギー。
自分を変えたい、チャンスを掴みたい……。
諦めずに動き続けていると、その力をキャッチする幸運に恵まれるような気がします」
「楽屋口で待っていたひとりのお客様が
“こんな繊細な白鳥を見たのははじめて。
その表現は日本ならではなのか”と、
私の演技をとても褒めてくださったんです。
自然と身についていた
日本人としての所作や感性が、
海外の舞台では“表現の個性”として
映っていたとはじめて気付かされました。
ついさっきまで否定していたものが、
自分の強みに変化。
このままでいいんだ!と、
ダンサーとしての在り方を確認できたことで、
2回目の公演からは
“私という白鳥”を演じられるように。
努力の過程では
ときに人と比較してしまうこともあって、
だからこそ高みを目指せたりもする。
でも、なかなか越えられない壁を乗り越える
最後の一押しとなるのは
“自分が好き”という前向きなエネルギー。
自分を変えたい、チャンスを掴みたい……。
諦めずに動き続けていると、
その力をキャッチする幸運に
恵まれるような気がします」

ライフステージ毎の
悩みや不安。
「必ず答えは
見つかる」

ダンサーとして、ひとりの女性として。
中村さんが歩んできた“これまで”を振り返ります。

「20代で印象深いのは、ウィーン国立歌劇場バレエ団でソリスト時代に出演した『ラ・バヤデール』。
準主役のガムザッティを演じさせてもらったのですが、
いつもは2回転で終えていたフェッテを
“もっと私を見せたい”という気持ちから3回転、尻餅をついてしまいました。
泣いている私を他のダンサーや先生たちは慰めてくれましたが、
監督だけは“プロの責任がない、君の失敗は全体の失敗になる。お客様にとってもだ!”とすごく怒って。
ひとりよがりになっていたと大反省。
ソリストとして、この舞台全体を引き上げる踊りをしていかないといけないと、チームを強く意識するようになりました。
当時21歳、ガツンと叱ってもらえて本当によかったです」
ダンサーとして、ひとりの女性として。
中村さんが歩んできた
“これまで”を振り返ります。

「20代で印象深いのは、
ウィーン国立歌劇場バレエ団で
ソリスト時代に出演した
『ラ・バヤデール』。
準主役のガムザッティを
演じさせてもらったのですが、
いつもは2回転で終えていたフェッテを
“もっと私を見せたい”という気持ちから
3回転、尻餅をついてしまいました。
泣いている私を他のダンサーや
先生たちは慰めてくれましたが、
監督だけは
“プロの責任がない、
君の失敗は全体の失敗になる。
お客様にとってもだ!”
とすごく怒って。
ひとりよがりになっていたと大反省。
ソリストとして、
この舞台全体を引き上げる
踊りをしていかないといけないと、
チームを強く意識するようになりました。
当時21歳、ガツンと叱ってもらえて
本当によかったです」
「結婚・出産を経験した、30代。
当時はベルリン国立バレエ団でプリンシパルを務めていましたが、
周りに出産を経ても活躍しているダンサーが多かったので、
“私もできる”と悩むことはありませんでした。
海外のバレエ団の多くは出産で休む場合も、役職や給与が保証されています。
戻ることのできる場所があるって、大きな安心材料ですよね。
私は産後、4ヶ月後で復帰。
息子を出産したのが2011年1月、東日本大震災が起きた年です。
パリで日本を応援するためのチャリティガラが開催されることになり、
出演のオファーがありました。
運命、使命のように感じて踊ることを決意。
身体的には無理はしましたが、日本人バレリーナとして踊らない選択は考えられませんでした」


「40代に入ってしばらくは葛藤していました。
頭の中には若い頃の全力で踊るイメージがあるのに、実際の体はそうは動いてくれない。
息子の受験とも重なり、バレエに向き合いきれない自分にモヤモヤする日々。
ただ、私のなかに“諦める”という言葉はなく、
考え、動き続けることで、絶対に前に進むための答えは見つかると思っています。
たどり着いたのは100%やそれ以上の力を出そうとせずに“70~80%にコントロールする”という答え。
全力が出せないのではなく、あえて出さない考え方に変えたんです。
20~30%を余裕として置いておく、その余裕で今の私にしかできない表現を楽しむ。
そう考えたらすごく楽になって、お客様にも等身大の姿を見て何かを感じてもらいたいという気持ちになりました」
「結婚・出産を経験した、30代。
当時はベルリン国立バレエ団で
プリンシパルを務めていましたが、
周りに出産を経ても
活躍しているダンサーが多かったので、
“私もできる”と悩むことはありませんでした。
海外のバレエ団の多くは出産で休む場合も、
役職や給与が保証されています。
戻ることのできる場所があるって、
大きな安心材料ですよね。
私は産後、4ヶ月後で復帰。
息子を出産したのが2011年1月、
東日本大震災が起きた年です。
パリで日本を応援するための
チャリティガラが開催されることになり、
出演のオファーがありました。
運命、使命のように感じて踊ることを決意。
身体的には無理はしましたが、
日本人バレリーナとして
踊らない選択は考えられませんでした」


「40代に入ってしばらくは葛藤していました。
頭の中には若い頃の
全力で踊るイメージがあるのに、
実際の体はそうは動いてくれない。
息子の受験とも重なり、
バレエに向き合いきれない自分に
モヤモヤする日々。
ただ、私のなかに“諦める”という言葉はなく、
考え、動き続けることで、
絶対に前に進むための答えは
見つかると思っています。
たどり着いたのは
100%やそれ以上の力を出そうとせずに
“70~80%にコントロールする”
という答え。
全力が出せないのではなく、
あえて出さない考え方に変えたんです。
20~30%を余裕として置いておく、
その余裕で今の私にしかできない
表現を楽しむ。
そう考えたらすごく楽になって、
お客様にも等身大の姿を見て
何かを感じてもらいたい
という気持ちになりました」

若い世代の
夢が膨らむような
バレリーナ像を
作りたい

現在、フリーダンサーとして舞台だけでなく様々なメディアで活躍、
SNSの積極的な発信でも注目される中村さんが
“挑戦し続ける理由”。

「よく聞かれるのが“何歳まで踊りますか?”という質問。
私自身まだ想像もつかず、いつ引退するかも考えていません。
何が起こるかわからないのが人生じゃないですか。
ただ、若いダンサーたちは“40代の私のこれから”を気にして、見てくれていると思います。
バレリーナは引退したらレッスンの先生になるのが、主な道筋でした。
それだけでない可能性を見つけたい。
次の世代に“こんな未来もあるんだ”と、
もっと夢が膨らむようなバレリーナ像を作っていきたいと、今は活動しています」
現在、フリーダンサーとして
舞台だけでなく様々なメディアで活躍、
SNSの積極的な発信でも注目される中村さんが
“挑戦し続ける理由”。

「よく聞かれるのが
“何歳まで踊りますか?”という質問。
私自身まだ想像もつかず、
いつ引退するかも考えていません。
何が起こるかわからないのが
人生じゃないですか。
ただ、若いダンサーたちは
“40代の私のこれから”を気にして、
見てくれていると思います。
バレリーナは引退したら
レッスンの先生になるのが、主な道筋でした。
それだけでない可能性を見つけたい。
次の世代に
“こんな未来もあるんだ”と、
もっと夢が膨らむような
バレリーナ像を作っていきたいと、
今は活動しています」

感情を表現することを
こわがらない強さに
品格を感じます

美しく、たくましい。
今の時代に憧れる品格を湛えた中村さんが考える“エレガントな人”とは。

「バレエという言葉のない表現は、踊りに心の様子が表れます。
人にはいろんな感情があって、常に健やかであるのはむずかしいですが、
いい状態に整えるためには感情を吐き出すことが大事。
16歳でドイツに渡ったばかりの頃は言葉も通じず、
困っていることすら伝えられずに周囲に気を使わせてしまい、
その気配を感じて自分がどんどん悲しくなってしまうという時期がありました。
海外の人たちは、本音のコミュニケーション。
真っ直ぐな思いが伝わるから深読みの必要がなく、解決も早い。
感情を吐き出すことで心が動き、体も動き、
自身が纏っている空気も変わっていくことを学びました。
感情を伝えることを恐れない、
その強さは品格、エレガンスというオーラになる。私もそうありたいです」
美しく、たくましい。
今の時代に憧れる品格を湛えた
中村さんが考える“エレガントな人”とは。

「バレエという言葉のない表現は、
踊りに心の様子が表れます。
人にはいろんな感情があって、
常に健やかであるのはむずかしいですが、
いい状態に整えるためには
感情を吐き出すことが大事。
16歳でドイツに渡ったばかりの頃は
言葉も通じず、
困っていることすら伝えられずに
周囲に気を使わせてしまい、
その気配を感じて
自分がどんどん悲しくなってしまう
という時期がありました。
海外の人たちは、
本音のコミュニケーション。
真っ直ぐな思いが伝わるから
深読みの必要がなく、解決も早い。
感情を吐き出すことで心が動き、体も動き、
自身が纏っている空気も
変わっていくことを学びました。
感情を伝えることを恐れない、
その強さは品格、エレガンスという
オーラになる。
私もそうありたいです」



Outfit Items | SHOKO NAKAMURA


Profile

中村 祥子
Shoko Nakamura


野村理子バレエ教室でバレエをはじめる。
1996年ローザンヌ国際バレエ・コンクールで
スカラーシップ賞/テレビ視聴者賞受賞。
96~98年シュツットガルト・ジョン・クランコ・バレエスクールに留学、
98年シュツットガルト・バレエ団に研究生で入団。
2000年ウィーン国立歌劇場バレエ団に入団。
01年ルクセンブルク国際バレエ・コンクール第1位。
02年ソリストに昇格。
06年8月ベルリン国立バレエ団に移籍。
07年プリンシパルに昇格。
13年11月ハンガリー国立バレエ団にプリンシパルとして移籍。
15年9月よりKバレエ カンパニーに在籍。
18年第39回橘秋子賞優秀賞受賞、
20年第34回服部智恵子賞受賞。
20年Kバレエカンパニー名誉プリンシパルとなる。
現在はフリーのダンサーとして精力的に活動中。



Instagram : @shoko_officialpage


野村理子バレエ教室でバレエをはじめる。
1996年ローザンヌ国際バレエ・コンクールで
スカラーシップ賞/テレビ視聴者賞受賞。
96~98年シュツットガルト・ジョン・
クランコ・バレエスクールに留学、
98年シュツットガルト・バレエ団に
研究生で入団。
2000年ウィーン国立歌劇場バレエ団に入団。
01年ルクセンブルク国際バレエ・コンクール
第1位。
02年ソリストに昇格。
06年8月ベルリン国立バレエ団に移籍。
07年プリンシパルに昇格。
13年11月ハンガリー国立バレエ団に
プリンシパルとして移籍。
15年9月よりKバレエ カンパニーに在籍。
18年第39回橘秋子賞優秀賞受賞、
20年第34回服部智恵子賞受賞。
20年Kバレエカンパニー
名誉プリンシパルとなる。
現在はフリーのダンサーとして
精力的に活動中。



Instagram : @shoko_officialpage


Photo / Jundai Watanabe
HairMake / Mayu Osada
Interview & Text / Hiromi Sakurai
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